とうとうイクセ村が前方の視界に捉えられるようになった時、クリスは今まで走らせていた馬の足を更にゆっくりと歩かせるようにした。
記憶の中にその姿を留める小さな村が、草原の向こうにある。
以前にパーシヴァルと訪れた時も、祭の頃だった。同じように賑やかな雰囲気が、村の外にも漏れて伝わってきているのが分かる。
既に懐かしい思い出となっているそれを思い起こしながら、クリスは急がずにイクセの村の入り口に向かっていった。
村の入り口に着くと、クリスは馬から下り、手綱を曳いて簡素な門を潜った。
誰か村人と出会う前に、ざっと今の自分の出で立ちを確認する。
一応、お忍びということになっているのだ。
クリスを語る代名詞となっている銀の髪がしっかりと大きめの帽子に隠れている事を確め、次に少年風の服装を見直して僅かに微笑む。
そして、真なる水の紋章が宿っている右手を隠す為にはめている両手の皮の手袋を僅かに引っ張ってから、クリスは小さく息を吸い、村の広場に向かって一歩足を踏み出した。
とりあえず、今夜の宿を取りに行くつもりだった。
村の中心に近づくにつれ、初めはぽつぽつとしか見られなかった人の姿が、だんだんと増えてくる。
殆どが村の人間だったが、中にはクリスと同じような旅装の者も混じっており、旅芸人らしき姿も二組ほど見受けられた。
クリスは露骨にならないよう気をつけながら辺りを見回しながら、以前来た時に見かけた唯一の宿屋を目指して村の広場の端を歩いていた。
村の中はいかにも祭の前らしくうきうきと楽しげな雰囲気がそこここに見られ、色とりどりの飾り付けで一層華やいで見えた。
だが、以前に受けた襲撃の爪跡は完全に癒えているとはいえず、殆どの住居は修復されているものの、一部はまだ手付かずで無残な姿を晒している場所もあった。
救いなのは、すれ違う人々の表情が一様に明るく、これから迎える豊穣祭を楽しもうという空気を共有している事だった。
ブラス城にいるだけでは見ることのない村人たちの様子を見つめながら、クリスは目立たぬよう、広場の人込みを避けながら、その向こうにある宿屋を目指して歩いていた。
白い愛馬を引いて村を横切るクリスの姿は、実はそれなりに目を引くものだったが、クリス自身はその事に気づいていなかった。
クリスは広場を抜け、人通りの少ない宿屋の前まで行き、宿屋の看板の前でパイプを燻らせている中年の男に声を掛けた。
「今夜、宿を借りたいのだが」
クリスに気付いた男は、胡散臭げにクリスの全身をゆっくりと観察した。明らかな女性の声でありながら男っぽい服装、しかも滅多に見ないような上等の白馬を連れている。腰には素人では持ちえない長剣がぶら下がっていた。
「……お前さん一人か?金はあるんだろうな」
「でなければ、部屋を頼みはしない」
「……ふん、いいだろう。うちにはいい厩もある」
男の返答に、クリスはほっとして頷いた。
「先に馬を休ませたい」
「いいだろう、こっちだ」
クリスは先にたって歩き始めた男の後を付いて宿屋の裏手に回り、言葉どおり質素だが手入れの行き届いた厩を見て満足した。
そこに愛馬を預けて、再び宿の正面に戻る。男に付いて中に入り、酒場と兼用になっているカウンターで(偽名だが)サインをして、前金で宿賃を支払った。
「後はどう使おうとあんたの勝手だ。部屋はそこの階段を上がって二階の右の突き当たり。こいつが鍵だ」
カウンター越しに男が放って寄越した鍵を受け取り、クリスは短く笑んだ。
「ありがとう」
僅かな旅の手荷物が入った袋を提げ、クリスは酒場の奥にある階段に向かった。
軋む階段を上り、薄暗くて狭い廊下に立つ。左右両側に四つの扉があった。突き当たりで、言われたとおりに右側の部屋の扉の鍵穴に鍵を差し込む。回すと、僅かな手応えがあって、取っ手を捻ると扉が開いた。
ナッシュと旅をした時を思い起こすような、簡素で安っぽい宿だった。
壁に張り付くようにして置かれた狭いベッドに近づき、その上に袋を置いて自分も腰を降ろす。
小さく息をつき、クリスはベッドの上に寝転がった。
朝から馬を飛ばしてきたせいか、やはり少し疲れたようだ。
しかし、心は浮き立っている。
ずっとブラス城とビネ・デル・ゼクセを往復するだけの日々だったが、今日は一人きりで、誰に気兼ねする事もなく気ままに行動している。こんな宿に泊まることすら、クリスには楽しい出来事だった。
それに、もう少しすれば懐かしい人と再会できるかもしれない。
今日クリスがここを訪れる事は、パーシヴァルには何も伝えていなかった。
直前まで予定が詰まっていて実際に来られるのか正直分からなかったというのもあるが、殆どの理由は、クリスが彼を驚かせたかったからなのだった。
何の前触れもなく訪れたクリスの顔を見て、パーシヴァルはどんな顔をして驚くのだろう?
それを想像するだけで、楽しかった。
一つだけある窓の下から、賑やかな音楽が聞こえ出してきて、クリスは身体を起こした。ベッドを離れて窓側に立って下を見下ろすと、旅芸人の一組が演奏を始めたらしい姿を、人込みの向こうに見つけることが出来た。
クリスもそれを見に行く事にして、荷物を置いたまま部屋を出ると、鍵を掛けて宿の階段を下りていった。
弦楽器らしき音と、何かの賑やかな打楽器の音が、広場の一角の人だかりの中心から聞こえてきている。
クリスは帽子を深く被りなおすと、そちらに向かって歩いていった。他にも村人たちがそちらに向かって走っている。
クリスがその場所に着いた時、既にあたりは人の壁が出来ていて、演奏をする旅芸人の姿を見ることは出来なかった。
しかし、楽しげな音楽は人込みの向こうから聞こえてくる。
聞きなれないその音色を楽しみながら、クリスは何気なく辺りを見回した。
既に夕刻に近い時刻になりつつある。時間が過ぎるごとに薄暗さを増してくる中でも、人々は元気に動き回り、祭の準備に余念がなかった。
――ふと、人込みの中で、懐かしい横顔を視線の端に捉えた気がした。
はっとして、クリスは改めて広場の反対側を見直した。
途端に、鼓動が跳ね上がる。
つい今まで楽しんでいた音楽が全く耳に入らなくなった状態で、クリスは一心にその方向を見つめた。
……いた。
人込みの中で頭一つ分抜きん出た、見覚えのある黒髪と、飄々とした笑みを浮かべている整った横顔の若い男。
生身のパーシヴァルが、クリスのいる場所と丁度反対側の広場の端で、見知らぬ相手に談笑している。
急に落ち着きのなくなった胸の心音を抑えようと、クリスは上着の上から胸元を抑えたが、全く無駄な努力だった。
「どうしよう……」
漏れ出た己の呟きにも気付かぬまま、クリスはじっと懐かしいパーシヴァルの横顔を凝視した。
向こうはまだ、クリスがいる事に気付いていない。
クリスはその場に立ち尽くして、途方に暮れてしまった。
どうすればいいのか、皆目見当がつかなかったのだ。
近づいていって、声を掛ければいいのだということは分かっている。その為に、ここまでやってきたのだ。
けれど、パーシヴァルにどんな顔をして向き合えばいいのか。どんな声で、何を話せばいいのか。
クリスがまごついていると、パーシヴァルは相手と話し込んだまま、背を向けて広場の奥へと歩き出してしまった。
それを見て、慌ててクリスもその後を追おうと、足を踏み出す。
……が、途中でその足が止まってしまった。
親しげにパーシヴァルに掛け寄り、その肩に手を触れさせて話し出した若い娘が現れたのだ。
連れ立っていた男は、それを見てパーシヴァルに手を上げて離れてゆく。
それを見送ったパーシヴァルは、娘に向き直ってその場で語りだした。
さっきまで煩いほどだった胸の動悸が、急に冷えてゆくのを、クリスは妙に冷静に感じ取っていた。
だが、視線を外す事が出来ず、仲の良さそうな二人の様子をじっと見続けてしまう。
栗色の巻き毛の娘は、愛嬌のある笑顔をパーシヴァルに向けて、ころころとよく笑っていた。
パーシヴァルも相槌を打つ様子を見せながら、目を細めて娘を見つめていた。
クリスはそれ以上見ていることが出来ずに、くるりと踵を返して早足で歩き出した。
俯いて自分の靴の先を見つめたまま、ずんずんと大股に歩く。
不覚にも涙が滲みそうになって、クリスは堪えきれずに駆け出した。
話し掛けてくる幼馴染みの話に適当に相槌を打ちながら、パーシヴァルは何気なく向けた視線の向こうに、有り得ない後ろ姿を見出して、その場に立ち尽くした。
すぐに幼馴染みが気付いて、問うてくる。
「どうしたの?」
「いや……」
上の空で返答しながら、まさか、と内心で呟いた。
――似ている。
服装は全く普段の「彼女」とは似ても似つかないが、しなやかな動きを見せる体つきが、記憶の中のそれと酷似していた。
が、その後ろ姿はすぐに人込みの中を走り去ってしまった。
パーシヴァルは一瞬で決断し、幼馴染みの話を途中で遮った。
「悪い、のろけ話はまた今度」
「あっ、ちょっと、どこへ行くのよ」
相手をその場に置いたまま、パーシヴァルは先刻の後ろ姿を追って広場の反対側へと向かった。
自分で自分の感情が理解できずに、クリスは涙の滲んだ目の際を服の袖で乱暴に拭った。
瞼の裏には、先ほど見た光景が焼きついている。
パーシヴァルが女性にもてるということは知っていたが、それを実際に目にしたのは初めてだった。
そのことに対応しきれずに動揺している自分が腹立たしい。
既に日が沈み、明かりのない場所では行き交う相手の顔も良く見えなかった。
クリスは早足で宿屋に向かっていたが、足元に窪みがある事に気付かず、暗がりでそこに足を踏み入れて大きくよろめいた。
転びそうになった寸前、左腕を誰かに掴まれて大きくうしろに引き戻され、何とか転ばずに済む。
礼を言おうと後ろを振り返ったクリスは、そこにいた人物を、目を見開いて見つめた。
肩で息をしたパーシヴァルが、何も言わずにクリスの腕を掴んだまま呼吸を整えようとしている。
至近で見るその顔を、クリスは言葉を忘れて思わず凝視した。
ここまで走ってきたらしいパーシヴァルは暫く呼吸を整える事に専念していたが、その間ずっとクリスの腕を掴んだままだった。
やっと息が落ち着つくとクリスの腕を放し、整った顔に苦笑いを浮かべた。
「そんなに急いで、どこに行こうというんです?」
「え……」
そう問われて、クリスは先ほどまでの腹立たしさを思い出した。
その途端に、パーシヴァルにぷいと背を向けて再び歩き出す。
「お前には関係ない」
動じる様子も見せず、パーシヴァルはクリスのすぐ後をついてきた。
「そうですか?しかし、こんなところで再びクリス様にお会いできるとは思いませんでしたよ」
普通にクリスの名を口にしたパーシヴァルに、クリスはいささか慌てた。
「よせ、私は一応お忍びなんだ」
「ほう、それじゃあわざわざ人目を忍んで、私に会いにきて下さったんですか」
クリスはぐっと言葉に詰まり、ますます足を速めた。
「そんな事は言ってない」
「違うんですか?」
「……」
微笑を含んだ言葉に、クリスは先刻見た光景についての腹立たしさをぶつけようとパーシヴァルに向き直った。
だが、パーシヴァルに正面で向き直ると、何も言葉が出なくなってしまう。
そこにあるのは、ただ、嬉しさだけだった。
クリスは唇を噛んで俯いた。
そんなクリスの様子を見て、パーシヴァルは手を伸ばしてクリスの右手を取ろうとした。
しかし無意識の内に、クリスはその手を避けてしまった。
右手の甲には、真なる水の紋章が宿っている。安易に他人に触れさせるには抵抗があった。
その事にすぐに気付いたパーシヴァルは、さりげなくクリスの左手を取り、先に立って歩き始めた。
「今日は、お一人ですか?」
「……うん」
「宿は取ってあるんですか」
「ああ、そこの……」
クリスはすぐ側まで近づいていた宿屋の看板を指差した。
それを見て、パーシヴァルはまた笑みを見せた。
「まあ、この村で宿といったらあそこしかありませんけどね。じゃあ、そこの一階の酒場で、ちょっと早いですけど夕飯にお付き合いいただけませんか?ささやかですが、私が奢りますよ」
・・・NEXT・・・